死者の美化にモデル=ライバル論を適用してみる

死者というのは生きてる人に比べて美化されやすいように思うが、それをモデル=ライバル論を使って考えてみる。

モデル=ライバル論というのは、フランス出身の思想家であるR・ジラールが提唱したもので、簡単に言うと次のようなものである。

人が何かを欲望するときは、そのものを欲するというより、他者(ライバル)の欲望を模倣することによって欲望を発生させる。今、欲望の主体をS、対象をO、欲望を媒介するモデルをMとすると、SはOを欲するというより、MのOへの欲望を模倣してSはOへの欲望を発達させるというものである。これはもちろん1次的な欲求(マズローの欲求階層でいえばより低次(生物的)の欲求)ではなく、ある程度社会化された中での人々の欲求を言っているのだと思われるが、この論説のキーポイントはここからである。SとMの遠近によってこの基本図式はさらに二つの類型に分かれる。SとMとの距離が生活圏や社会的地位などにより大きく分断されている場合(外的媒介)は、MがライバルとなってSの欲望の達成を妨害することはない。テレビの中のヒーロー・ヒロインや、卑近な例でいえば日本人の西洋羨望というのがそれである。あくまで憧れで終わる。しかし、SとMの距離や生活圏がある程度干渉可能なくらいにまで縮まってくると(内的媒介)、Mは羨望の対象としてのモデルとしてだけではなく嫉妬の対象であるライバルへと変貌する。何故なら欲望主体(S)はモデル(M)と同一物(O)を欲望することになるから、同じ生活圏内にいる場合、欲望を貫徹しようとすれば、モデルは主体の欲望を妨げる障害(ライバル)に変わるからである。これをモデル=ライバルという。Sは欲望の邪魔をするライバルと化したMを憎悪するが、MがSの手の届かない対象を保持している限り、モデルであることは変わりないので、MはあいかわらずSを魅了し続ける。崇拝と憎悪の共存は、モデル=ライバルに対するSの基本的な感情である。

さらにもう一つ導入しておきたいのがOの具体-抽象のパラダイムで、Oの一方の極として美人の女とか財といった具体的なものを、もう一方の極に社会的名誉や閉鎖的ソサエティの入会資格といったつかみどころのない抽象的なものを置くと、人間の様々な欲望対象はこの両極を結ぶ線上に位置するだろう。ここで重要でおもしろいのが、欲望対象が抽象化すればするほどMとOは近接し一体化する傾向があるということである。また、社会の近代化・平等化が進むと、S-M間の距離の縮小とOの抽象化が平行して進行するという現象が見られる。(作田啓一, 井上俊, 2011,  『命題コレクション 社会学』ちくま学芸文庫)

さて、説明のためにほとんどの部分を割いてしまったが、ここから本題に入る。死者というのはこの世の人から見ればどうしようもなく隔絶された世界にいるわけで、S(すべての現世の人々)とM(死者)との距離は十分に離れてると言っていい。そういう意味ではこのMはあらゆるSに対してライバルには成り得ない(あるいは著しくなりにくい)。さらに死後に美化されうる存在というのは先にもあるように、MとOが限りなく接近しているはずで、そういう意味では、同じ生活圏にいなければなるべく崇拝したいという潜在的な感情が人々にあるということになる。だから死者は純粋な羨望(モデル)へと美化しやすい。

つまり、この問題の本質は、畏敬を受けるほどの大きな存在(ゆえに崇拝と憎悪を受ける存在)が、死ぬことにより、どうしようもなく大きく隔てられ、ライバル化することがとても困難になることにある。さらに、物質(具体)的なものをすべて失っても(死ぬのだから当然すべて失う)、Mの魅力であったOはもはやMの属性のようになっているので魅力はなおも穏やかに残存する。というわけである。

(このモデル=ライバル論から膨らむ話自体はまだまだ続いておもしろいので、それはまた次回書こうと思う)

研究(論考)と当事者性

今日社会科学科の友達とごはん食べてて色々話していたんだが、彼と話してていくつか思ったことがあったので書く。

彼は授業である課題が出されて(その課題の幅は結構広かったので自由度は高かった)、自分でピックアップしたテーマがおもしろかったので、それについて3000字でいいところを9000字近く書いたそうだ。普段彼はこの手の類の課題が嫌いなのでこんなに書かないそうなのだが(リアクションが返ってこないため、つまり出しっぱだから)、自分の好きなテーマだったし熱くなったから書いたそうだ。だが、僕なんかはこういうのすごくおもしろいから見たいと思うのだが、彼は先生ならいいが他の人には見せたくないという。真剣に書いてれば書いてるほど他人には見せたくないというのだ。それは真剣に書いたそれを見せてバカにされたり批判されたりするのが嫌だということらしい。この意見はもっともだ。

でも僕はやはり真剣であればあるほど見せた方がいいと思うし、見たい。何故なら当事者性が高いというのは当人にとってアクチュアルな問題だということだからだ。これは社会科学ゼミでも先生に賛同していただいたが、ある社会(学)的なテーマを考える時、自分に本当にアクチュアルな問題かどうかというのはひとつの尺度になり得る。何故なら当人にとって本当にアクチュアルな問題というのは多くの場合、他の誰かにとってもアクチュアルな問題である場合が多いからだ。逆に「いい(っぽい)もの」を書こうとすると失敗するというのは見田もいっている。

たとえば、『制服少女たちの選択』(宮台)における人格類型分類で、「<世界>の事前的構造化」ができているかいないかで大きなカテゴリー分けをしているが、この論考はおそらく後者側(できていない方)にとってしか、より有用な意味は持たない。何故なら、この構造における強者/弱者構造は明かで(当然構造化できてる方が強者で、できてない方が弱者)、強者/弱者構造を明らかにする行為は弱者にとってこそ意味のあることだからだ。つまり、分かる(側の)人にしか分からない事態なのかもしれない。ところが、そのカテゴリーに分類される人は、人口にたいしてあるパーセンテージいて、ただくくりがあるというだけでなく、現実にその人格であるがゆえに発生する様々な苦難を甘受しなければならない。そういったときに、このカテゴライズによって自分が社会的にはどういう立ち位置にいるのかを客観的に把握できることがどれだけありがたいことかを痛感するのだ。それができるのも、(おそらく構造化できていない著者が)その問題をアクチュアルだと捉えて論考し発表したからなのだ。それはちょうどニーチェがルサンチマンの塊だったにもかかわらず、ルサンチマンを否定する彼の論説は十分論理的だったのに似ている。

一般に、当事者性が高い、自分にとって本当にアクチュアルな問題というのは、自分の深い部分をえぐり出される可能性が高い。それは最前いったように往々にして自分が弱者的立場にあることによって考察される場合が多いからだ。内田が『街場の現代思想』で

「「潤沢に文化資本を享受している人」は「文化資本」という概念を用いて自分のあり方を説明することがありません」

といっているのに通底する。だから、個人にとってある種リスキーな部分はあると思うのだが、それを発表することによって助かる人がいることもまた事実なのである。だから大いに書いて発表して欲しいと思う。それになにより、僕はすごく読みたい。そういうことなのだ。

Aerosmithライブ @京セラドーム on 6 Dec.

いやー熱かった。
後半のバラードからの盛り上がりがやばかった。
正直最初とそこ以外だれてたというか疲れたけど。(というか音が割れててキツかった(××))
Dream Onらへんから最後のWalk This Wayの全員手挙げての一体感までがシビれた。パなかった。
あとジョーイ・クレイマーの素手のげんこつと頭突きのドラムね。もはやロックというか日本っぽくて好きだった。初めて見たわ笑。
あと演出かもしれんけどジョー・ペリーがハウリングでアンプこがしてたし笑。

なんかドラムソロも含めてときどきサウンドに日本的なものを感じたんだけどあれは気のせいなのだろうか、それとも意識してるのだろうか

あとジョー・ペリーよりももう一人のギターの、おしゃれなおっさん(ブラッド・ウィットフォード)の方がのれるギターを弾ける笑

いやーでも当初聞きたい曲全部聞けたし、クオリティーはともかくとして生のJadedとWalk This Way聞けたのはよかった。これでカラオケでまた気兼ねなく熱唱できる笑
Pink聞きたかったけどなー

いやーでも60のおじいちゃんたちって考えたらすごいよ。
シャウトはなお健在だし一級品だと思う
ドラムも頑張るよね、すごいとおもう

日本の国旗2つ映し出された時は感動した
なんかスティーブンのほんとかうそか知らないけど日本への思い入れというか思いやりが感じられた
なんか最後退場した後3つになったときはさらにかっこよかったな
初めて国旗がかっこいいと思った
ちゃんと写ってないのが残念だけど↓

一体感のときの写真↓ みんなのうでが揃ってる

終わった後隊長とポカリと会ってヨーダも混ざりながらライブと音楽トークで盛り上がりながらご飯も食べたし
最近音楽トークのつながりが広がっている笑

そして来週の木曜日もB’zのライブで京セラドームにいるっていうw
ああ楽しみ
カルパスと隊長からB’zのCD借りよう♪

『Vフォー・ヴェンデッタ』

映画の感想を書いていていつもむなしくなるのはこれはただの要素に過ぎないということ。
結局何でよかったのかの理由の後付けでしかなくてほんとうのところ何がよかったのかは分からない。
それでも書きたいと思うからそこを踏まえた上で。

  • ジョージ・オーウェルの『一九八四年』にかなり似てると思った。もしかしたら影響を受けてるのかなとも。まあ僕の推測だけど。ねずみとか独房での自己決意がヤラセとか統制下で市民が禁止物を隠し持ってるってところもあるけどそもそも全体の世界の状況とかも。
  • 支配するのは「恐怖」ってところや「怪物を生んだ…」ってところは浦沢直樹の『MONSTER』と通じるところがあっておもしろかった。
  • ナタリー・ポートマンは従兄弟が映画監督の映画通の友達が一番好きな女優だから僕も一目置いて見るようにしてるんだけど(というかその友達の変わった感性を僕が一目置いてるからなんだけど)、『レオン』のときもそうだったような気がするけど少女がおびえてるような演技が好き(レオンの時は本当に少女だったけど)。変な言い方だけどおびえるときの少女な部分がかわいいと思ってしまう。おびえてるときってその人の一番素な部分とかがみえると思うんだけど意外にそういう人少ないんだよね。案外人間的なクサさが消えないというか。だから彼女の少女的な部分があるなあっていう演技にすごい気に入ってしまった。
  • 個人的には remember remember the 5th of November と韻を踏んでるところが好き 。シェイクスピアもさることながら古典は韻を踏んでいて美しい。
  • 個人的なことをもうひとつ言わせてもらえばVとEVがダンスをするシーンは自分がすごい恋してる時のような状態になった。
  • 構成がすばらしい。いろいろな部分がつながってったり途中の不思議なシーンやギミックもクライマックスや最後のVはみんなよ、というシーンも。何より根本の指針がしっかりしてるからその中にいろいろ不思議な要素を加えてもすごいまとまってみえる。

以上簡単に思った感想。
非常におもしろい作品でした。

個人的にはやっぱり作品には芸術性と思考性(意味)が必用だなって再確認させられる作品でした。

パフォーミングアーツ

僕は今セメ平田オリザの「パフォーミングアーツの世界」という授業を大学で取ってるんですが、今日はマイムの回ということでいいむろなおきさんがきて授業(WS)をしてくださったんですが、毎度この授業で思うのは、おもしろい! ということ。まあおもしろいのもそうなんですが、大変勉強になる。

演劇関連ということで今回はマイムなわけですが、こういうWS形式というか、いわゆる座学じゃなくておもしろさとかエンタテイニングな部分を追求した講座は独特の臨場感があってすごく刺激になります。しかも今回なんかは圧倒的なレベルの実演があるので話に説得力がある。

マイムっていうのはパントマイムだけじゃなくていろいろあるらしいんですが、その中で僕がすごい興味を持ったのがmime corporel dramatiqueというもの。フランス語ですが、すごいざっくりいうと、ありきたりな動作もすっごい大げさにやる、ということです(あ、正確には知りませんよ、僕の見た限りの感想ですw 直訳は「人体による演劇のマイム」) もともとのコンセプトの中にも空間をできる限り使うというものがあるらしいんですが、それにバレエ的な要素が加わって、個人的にはものすごく新しくてびびっときました。

話の中ですごい気になったのが度々口にしていた「パントマイムは『言葉を使えない』んじゃなくて『言葉を使わない』んです」ということ。「それによって広がる表現がある。言葉だと薄っぺらくなってしまうものを動作で表現したり、ありきたりな動作に意味をもたせたりすることで表現が広がる。制限することによってあえてそれを掘り下げていくことによって表現できるようになったり見えてくる世界があると思うんです」ということばです。なるほど。と思いました。ことばだけじゃなくて、事実みんなを注目させる実演としてパフォーマンスがありますから、無言のパフォーマンスが昇華された世界がそのすぐ向こう側にあろうことは想像に難くありません。

1820年頃フランスで、演劇界は度重なる弾圧を受けていたらしいんですが、それによって舞台上での台詞は禁止とか舞台上に同時に三人以上あがってはいけないなどの制限がかけられ、その流れでパントマイムというのは発展したそうです。この話を聞いて、一概に弾圧や制限がいけないとも限らないなということを考えさせられました。やっぱり技術の発展には戦争が必用なように、芸術の発展にも弾圧や制限が必用なのかなと思いました。

この流れの中でジャン・ガスパール・デュ・ビュロー(ジャン・バチスト・ガスパール・デュ・ビュロー(映画『天井桟敷の人々』ではバチストと呼ばれているので))という人が大きくパントマイムを発展させたらしいのですが、やはり人々の関心というものは逸り廃りというものらしく、栄枯盛衰は世の習いというか、その後半は段々と人気がミュージカルのようなものへと移動していき、パントマイムは衰退していったといわれます(引退公演でヤジなどを飛ばされて流した涙が、表ではおもしろおかしくやって心では泣いてというピエロ(クラウン?)のナミダのトレードマークになったといわれています)。

これを聞いて思ったのが、やっぱり芸術ってファッション(流行)な部分ががあるなっていうこと(めぐってまたパントマイムが評価されてるからという文字通りの意味も含めて)。結局芸術って評価されなければ価値がないと僕は思いますから、不遜であってはいけないと思うんですね(わかられようという意識が大切だから)。でも、表現するってことは自分が提示、提案していくことでもありますから周りを巻き込まなきゃいけない。売れるものだけをやっていくんじゃなくて、それもありだなを「作って」いかなくちゃいけない。でも評価されないとその活動自体に「意味がなく」なってしまう。ここにジレンマがあるわけですね。

僕は最近音響(ミュージック)をたくさん使った演劇に違和感を覚えてて、楽しいんですが脚本とかに中身がないと当たり前ですが何にも残らなくて、小手先感というか頼ってる感が否めません。やっぱりおもしろいものって、感覚と思考を両方動員したものだと思うから、そのどっちもにおいてやっぱりいい意味でファッション(流行)・流れって関係してると思うんですよね。何にせよその時代の「ニーズ」をとらえてることは必用です。

さっきの話を逆に言えば、周りを巻き込めさえすれば不遜であっても構わないということにもなるんですね。そのギリギリのラインを微妙なバランスをとりながらいったのがカリスマだと思うんです。まあ僕はそれでもその根底にはわかられよう、わからせようという意識があって、外面的なキャラクターは演出(演技)であるというのが本当のリーダー、本当のカリスマだと思いますが。

僕らもWSなので聞いてるだけじゃなくてパントマイムの練習もしたんですが、技術的なことでいえば胸の位置や向きっていうのが手先よりも非常に物語るというのが興味深かったです。胸の向き・角度と頭の向き・角度だけで一瞬にしてシチュエーションを逆転させたりできるということも学びました(これから誰かを刺しに行く・お、俺じゃねーよ…)。後は「習慣をひっくりかえして興味を引く」ということ。我々は普段の生活で様々な「アタリマエ」を習慣として記憶してますから、普通ある程度な重さを持ったカバンをものすごいあり得ない角度で軽そうに持ってるとそれだけで特異なわけです。これがカバンに引っ張られるとか、浮いてしまうとかいう動作につながり、「おもしろい」になるわけですね。

今回学んだことはこんなところです。
うん、毎回思うけど、こんな授業が増えたらいいなー、ほんと…。